2024.09.08 於:静岡ワード
お話の機会を与えられた事に感謝しております。お陰様で、福音について色々と考えることができました。私に今回与えられたテーマは、「モルモン書の証」です。聖文というものに私が初めて接したのは、中学生の頃でした。家族の誰かが家に持ち込んだ、このような手帳ほどの大きさの赤い新約聖書で、それも「ヨハネによる福音書」だけが収められておりました。
その朱色の聖文の表紙をめくりますと、最初に次のように書いてありました。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」まったく意味が分かりませんでした。しかし、言葉というものは大切なものなんだなということだけは、分かりました。後年、教会へ入って、この「言葉」という意味は、「創造主」即ちイエス・キリスト様の事だと分かりました。
それから、また教会で何年か経った頃、日本にも来て下さった ハワード・W・ハンター大管長が次のようにおっしゃっていたことを知りました。「聖典は神が自ら啓示された言葉の記録であり、神はこれを通して人々に語られる。そうだとすれば、聖典を通して神を知り、神と人との関係を理解することを教えている書を読む以上に効果的な時間の使い方がどこにあるだろうか。」
この言葉は、私の心に深く沁み込みました。そして、それ以来、私の聖典に対する接し方が大きく変わりました。何しろ、「神は聖典を通して人々と語られる」と予言者が言っているのですから、聖典を粗末に扱うことなど到底できなくなりました。また、同様に聖典を読んでおりますと、心にとても深く印象に残り、忘れられない物語に出会います。
皆さんは、どんな物語が印象に残っているでしょうか?私もたくさんありますが、まず、モルモン書では第1ニーファイ8章の物語でした。では、この章の要約のところを少し読んでみます。
「リーハイ、命の木の示現を見る。そしてその木の実を食べ、家族にも食べてほしいと思う。また、鉄の棒と、細くて狭い道と、人々を包む暗黒の霧を見る。サライアとニーファイとサムはその実を食べるが、レーマンとレムエルは拒む。紀元前約六百年から五百九十二年に至る。」
この中に鉄の棒という言葉が出てきましたが、これは神の言葉即ち聖典のことだと皆さんも日曜学校や神権会や扶助協会で教わってこられた事と思います。私も教わりました。リーハイの命の木の示現の中での鉄の棒は、命の木まで延びている鉄の棒の手すりのことを指しておりました。
命の木に至る道は狭くその道のすぐ横には流れの急な危険な川があり、暗黒の霧がたちこめて前がまったく見えません。そのような場合に備えて神様が用意して下さったのが鉄の棒です。長い人生を経て、私の人生にも様々な試練や艱難がありましたが、この鉄の棒を離さなくて本当によかったなアと思います。
歴代予言者の一人であるハロルド・B・リー大管長は、次のように私達聖徒を叱咤激励されました。「皆さんは、聖文を熱心に研究することによって、絶えず証を強めているでしょうか?聖文を読むことを日課にしているでしょうか?もし、毎日聖文を読んでいないとしたら、私達の証は次第にやせ細り、霊性が深まることもありません。私達は常に聖文を学び、それを日課にしなければなりません。」
私は、私達に与えられているこのモルモン書が、この人生の荒波を乗り切り、成長し、昇栄するために、私達の救い主であり神であるイエス・キリストが、予言者ジョセフ・スミスを通して用意して下さった鉄の棒であることを心より証致します。イエス・キリスト様の御名によって。アーメン。